La Vida ~ A Story

Tuesday, January 04, 2005

12月26日2004年:プーケット・タイ

これは私が2004年12月26日から12月28日の間プーケットにいた時のことについて書いた日記を日本語訳したものです。

まず、私は無傷であり、大丈夫です。私はたまたま12月の26日に起こった東南アジア・南アジアの地震と津波にまきこまれてしまいましたが、私と5人の友達は全員ケガ一つもなく生き延びることが出来ました。今思い返せば、見えない力がタイミング良く、私達を守ってくれたのではないかとも思えます。それくらい死の手が忍び寄っていたのです。

26日の朝6時、私はパトング・ロッジのロビーでの旅行会社のバンを待っていました。シミラン諸島二泊三日のスノーケル旅行へ行く予定でした。バンは7時に到着し、我々はプーケット島の北、ファング・ナにあるタプラム埠頭に向かっていました。バンは順調に進み、スピード・ボートに乗ったのは確か9時ごろだったと思います。

後で友達に聞いたのですが、彼女は朝8時ちょっと過ぎに窓がカタカタと揺れるの(時間からして地震だと思うのですが)を聞いたそうです。私はその時は多分バンの中でした。


シミラン諸島-私はここまでしか近づけませんでした

スピード・ボートは1.5時間かけて、少々止まり止りしながらシミラン諸島に近づきました。ボートの運転手は何度かタイ語でラジオでしゃべっていましたが、私たちには何が起こっているかはさっぱり分かりませんでした。ボートから海を眺めてみると、私達は少し驚きの色を隠せないでいました-何しろ、シミラン諸島は世界でも指折りのダイビング・スポットと言われていたのに、周りには濁った黄緑色の水、そして木やゴミが浮いていたからです。何だか居心地の悪い気がしました。

スピード・ボートから大きなジャンク・ボートに移るとアメリカ人のカップルが少し青ざめた顔をしていて、パスポートがその朝流されてしまったことを教えてくれました。更に様子を聞くと、前日から島の上でキャンプをしていた人達の持ち物全てが朝10時、高潮に流されてしまった事を教えてくれました。一人のイギリス人によると、水がロッジの窓まで上がってきて全部中にあった物を押し出してしまったそうです。シミラン諸島にいたアドベンチャー旅行者たちはみんなその時間帯にダイビングとスノーケルを楽しんでいたそうです。スノーケルしていた人達は「急に水が濁ってきて-ポン!-視界ゼロになっちゃったんだ。」と言っていました。スキューバしていた人のうち3人は遠くに流されてしまい、緊急シグナルをすぐに上げたそうです。みんな救出され、怪我人は一人も出ませんでした。



ボートの新参者だった我々はアンダマン海をぐるりと見回しました。あらゆる残骸が海に散らばっていました:靴、マットレス、ペットボトル、テント、木、Etc. 

誰も何が起こったか分からず、ただ待つだけでした。現地の人達によるとタイでは地震はめったに起こらず、47年ぶりなのではないかと聞きました。そのうち少しずつ情報が入ってきました:「プーケットの埠頭が崩壊した」「インドネシアのスマトラで今朝地震があった」「今は戻れない」等というものでした。大きなボートの方が安全なため、周りからどんどんスピード・ボートが集まり、我々のジャンク・ボートに人を降ろしに着ました。中にはピピ島から来たボートもあり、みんな荒い揺れで吐き気をもようしてしまった人達もいました。ある時点で、60人ぐらいジャンク・ボートの上に乗っていたのではないかと思います。



この時、誰も事態の深刻さを知らず、のん気に明日までには残りの休暇を楽しめるのではないかと思っていました。ボートからは熱帯魚が泳ぐのが見え、飛び魚が水面をツイーっと半グライダーの様に飛んでいくのを眺めていたのですから。しかし、ボートはタイの国立公園課から本土に引き返すように命じられ、我々は失望を隠せないでいました。せっかくシミラン諸島まで出てきたのだからせめて海に入ってから、とせがみ、水に入りましたが、視界は5mしかなく、まるで大男が周り一帯を大きな棒でかきまぜてしまった様でした。

私達がどれだけ幸運だったかを知ったのは夜の6時ごろでした。一緒にツアーにいたデンマークからの女性の携帯のメッセージには「2000人プーケットで死亡または行方不明。大丈夫なの?」という家からのパニックした言葉でした。ニュースは更に悪化し、「インド、スリランカ、バングラデッシュ、タイ、インドネシア-全地域の死亡者5000人に上る」というメッセージが入ってきました。我々は自分達がどれだけラッキーだったかを初めて知りました。

私はどうしてもスノーケルがしたかったのでパトングにいる友達と別行動していました。プーケットの災害がひどい(特にビーチの近く)という事を知り、私は急に彼らの安否が心配になりました。我々が泊まっていたパトング・ロッジはパトング・ビーチからは500mほどあり、少々高い位置にありましたが、安全が確認できない中、とても不安でした。

シミラン諸島から本土までは3時間かかりましたが、岸に近づくにつれてポツポツと灯が見え始めました。しかし、それは他のボートと灯台からのみでした。人家からの灯は一つもなく、満月に照らされた山のシルエットが見えるほどでした。電力全てが途切れてしまったのではないかとみんな顔をくぐもらせました。

ボートから降りる時、私達は船が他の船に60度の傾斜に重ねられてるのを見ました。その中でもはっきりと覚えているのは一艘完全にひっくり返り、ブクブクと沈んでいく船でした。Tuk-tuk(現地のタクシーの様なもの)を待っている間、我々は一人の老人が晩御飯を食べながらウィスキーを飲んでいるのを見ました。彼は前方の船場を指し、「あの二艘は...わしの船だったんだ」とつぶやきました。

Tuk-tukの隙間から見えた光景は悲観していたほどではなく、浸水されたわき道しか見えませんでした。町に近づくと、停電の恐れはなく、ファング・ナの人々はごく普通に夜道を歩いている様でした。しかし、それも避難所に着くまででした。Tuk-tukが避難所の道に曲がる直前に一人の取り乱した女性が飛び出てきて「ペト!ペト?どこなの!?」と慌てて道を駆けていきました。みんな居心地悪く、ため息をつきました。

避難所にて

私はデンマークからのカップル4人と行動を共にし、緊急避難所に変身した寺の階段に腰をかけました。誰も食べる事も寝る事も出来ず、ただ目を見張り、ニュースをもらさないように神経をピリピリさせていました。私も何か手伝いたかったのですが、状況が分からない中、ただ言われた事に従うだけでした。ビビカ(仲良くなったデンマークからの女性)と私は気を落ち着かせるために何本もタバコを吸い、私達の信じられないほどの運について話しました。

そのうち、半裸のいかにもビーチから来たばっかりという格好の男の人がタバコを貰いに来ました。「ありがとう。ちょっと気が治まったよ」と彼は言いました。「私は今朝ビーチにいて嫁はまだホテルにいたんだ。波が急に来るのを見てとっさに息子を連れて走った。ロビーに行った頃には水がずい分と高く浸水していて、息子を一生懸命持ち上げていたんだ。嫁は瓦礫の下から助けられた。その後ホテルの半分が死んだと聞かされたよ-200人。死んだんだ。今はタバコを吸えるだけでも嬉しいよ。」

ビビカのアドバイスを聞き、私は避難所の周りを少し歩いてみました。我々は仏教のお寺にいたので、裏ではお経を上げている者や祈っている人達がいました。二階に上がると床は人でびっしり埋まっていました-ケガをしている者や担架に横たわり点滴を受けている人たち。多くが下の階で緊急処置を受けていました。ケガのほとんどは波に流されてしまった時に障害物にぶつかった時の擦り傷、そして逃げているパニックの中転んでしまった時に出来たものでした。多くの人達は足をひきずり、余震が起こった際には逃げ切れそうにもありませんでした。彼らの顔には皆同じように絶望的な表情が写っていました。「バケーションに来ただけなのに。なぜ?...なぜ?」

情報の少なさにみんなを恐怖の宙に浮いているようでした。ボランティアの人達は(ほとんどがツアー会社のガイドたち)片言の英語で一生懸命状況を説明しようとしていました。しかし、上手く通じる共通の言葉が無いなか、いつもはニコニコしているタイ人でさえいらつきを隠せないでいました。そして周りを見ると気がつかないでいられないのはヨーロッパからの人達の多さでした-デンマーク、スイス、スウェーデン、ドイツ、フィンランド-どうりでコミュニケーションがスムースにいかないのだ、と納得せざる得ない状況でした。

私のデンマーク人の友達の所に戻ると彼らはドイツ人の女性と話をしていました。その朝、その女性の夫が慌ててバンガローの入り口で「早く!逃げろ!」と彼女を探しに来たそうです。しかし彼女がバンガローの外に出られる前に波が押し寄せ、彼女は天井に押し付けられ、気を失ってしまったそうです。幸い彼女は救出されたのですが気がついた時に彼女の夫はどこにも見当たらなかったそうです。彼女の服はボロボロに破れ、はだけていて一緒にいたデンマークからの女性が洋服を着せてあげました。そのドイツ人の女性はまだ夫を探そうとしていましたが、彼女を見れば一目瞭然、体力的にも精神的にもそれが無理なことが明らかでした。気がつくと他の女性が我々に近づき、ライターを借りに来ていました。「ちゃんと返しますから。向こうで赤ん坊がショックを起こしかけてるの」と彼女は言いました。

こういう時こそ時間は遅く流れるようにできているのでしょうか。私達は夜8:30から避難所にいたのですがもうそこに一日中いたような感覚に陥りました。ビビカの夫が携帯電話をかしてくれたので何回かつながりが途切れた後やっとカリフォルニアの家に通じることが出来ました。母はまだ寝ていましたが、私は慌てて「私は大丈夫。インドネシアで地震が起こってタイにも影響があったけど大丈夫。今避難所にいるから。」と一気にまくしたててしまいました。それまで落ち着いていたのに、心の底ではものすごく恐怖を感じていた事に初めて気がつきました。不安で不安でたまらなく、どれほど危なかったのだ、と。5000+人、そして更に多くの人が東南アジアで死んだのだと思うと、凍るような気分で自分の運の良さを改めて確信しました。

現地の人達と旅行者

避難所にいる間ずっと一緒にいてくれたタイ人の女の子がいました。彼女は私達のダイビング・スノーケルの旅行会社の社員で、彼女の家は今朝の津波で流されてしまったそうです。朝からラジオの対応で忙しく、一日中コーヒーしか飲んでいないと言っていました。彼女はせっかくツアーに来たのに、と私達の心配をしていました。しかし、むしろ心配なのは災害の去った後始末をしなくてはいけない現地の人なのに、と思いました。

漁業からエコ・ツアーリズム、そしてリゾートなどタイは大きなダメージを受けました。他国の状況から目をそらすわけではありませんが、その時点ではタイの経済後遺症のことが頭をよぎりました。タイの人達は特有の大きなスマイルとあたたかいもてなしで知られています。しかし、今の彼らの顔は絶望に塗り替えられていました。生き残った旅行者はせめて自分の家と安定した国に帰れるのに...。

でもこのストーリーは「私達vs.彼ら」ではありません。現地の人達と旅行者、同じく傷つき、悲しみを感じていました。今すぐではないけれどこの先、タイの素晴らしさをまた見つけに旅行者が来ることを心から願いました。

愛はいつでも

カオスの中にも優しさはありました。みんなが手を差し伸べ、周りの苦しみに敏感でした。ボートの上で会ったイギリス人の男性はケガをした女性二人についていてあげていて、彼女たちが動けるように人間松葉杖になってあげていました。そして彼女達が病院か別のキャンプに移るまでずっと付き添っていてあげました。人々は寄り添っていました-カップルはお互いをしっかり抱き合い、他人は小さな円を作り誰一人とり残されないように助け合いました。

お寺にいた時、タイの女の子が懐中電灯をこっそり持ってきてくれて、彼女の母がもう少し居心地の良い避難所を探しているという事を知らせてくれました。私達は何度もお礼を言い、少しでも疲れを取ろうと床に横たわりました。普通仏寺では靴をぬぎ、クッションやマットはお坊さんのみが使うものですが、事態が事態なので怪我人や安らぎを求める旅行者たちが使っていました。

女の子のお母さんがトラックで到着し、私たちはうしろの荷台に乗り込みました。お母さんは夜道を走る中、どの家が家族を亡くしてしまったかを指差して教えてくれました。

お母さんは元気で小柄な芯の強い女性でした。彼女は一日中妹を探していたそうですが、まだ見つからないのだと教えてくれました。

「今朝、彼女は息子を迎えにトラックで海岸沿いを走っていたのよ。知ってる?波が大きく引いて砂と埠頭を持っていっちゃったのよ。そして、バン!波がいきなり戻ってきたの。私の妹のトラックは波にさらわれていっちゃったのよ。後で彼女のトラックがボコボコになっているのは見つけたんだけれど彼女は中にいなかったの。プーケットにある病院全てを探したけど彼女はどこにもいなかったわ。」

悲惨なストーリーだったけれど、このお母さんはまだ希望を持ち、まだ確かな証拠があるまでギブ・アップをしない様子でした。そして妹が行方不明なのに、旅行者の我々がちゃんとした寝床を探すのを手伝ってくれているのでした。

タイの軍隊がどんどん食べ物、洋服、水を運び、ほとんど手に入らない物はありませんでした。そして避難所にいる仲間も限られたリソースを分け合いました:グローバルに繋がる携帯電話、アスピリン、トイレットペーパー。色々と持ち物を持っている人もいれば命からがら逃げてきて何も持っていない人もいました。

蛇足ですが、次の日に避難所で昼ごはんを食べている中、小さなタイの女の子が両腕いっぱいに水のカップを持ってきてくれました。私達のグループがそれを受け取ると彼女はとても喜び、それを見ていた更に小さな弟(5歳くらい?)が家族のピクニック・エリアにあったインスタント・ラーメン(避難所がみんなに配当していた物)を持って来ようとしました。私達はすでにラーメンを食べていたので思わず笑ってしまいました。こんなに大変な中でも他人への優しさは止まることは無く、みんながお互いのことを助け合っているのだなと思いました。


避難所で遊ぶタイ人の子供達

次の避難所

最初の避難所はお寺で、次に移ったのは本道を少し南に行った小学校でした。寝床を求めて場所を変えたのですが、到着するとそこはお寺よりも込んでいるように見えました。どこもかしこ見る限り人、人、人で埋まり、みんな乾いて少しでも灯の届く場所を探しているようでした。学校の二階に上がると木造の校舎は怪しくきしみ、これだけの人数で床が抜けてしまうのでは...とみんな不安そうに見あいました。

いずれにせよ、我々は机や椅子を重ね、少しでも人間が横たわれるスペースを作りました。人間パズルのようにみんな計らい、冷える夜風と蚊をよけるためにビーチ・タオル、T-シャツ、サロング等で一生懸命体をおおいました。ドイツ人たちがうるさく、夜遅くまで冗談を言い、他の疲れた人達は何とかハロゲンの光をよけようと勉強机の下に頭を突っ込み、震えながら寝ました。みんなうっとうしいと思っていたのでしょうけど、暗闇が恐ろしくて誰一人電気を消そうとする者はいませんでした。

気の張り詰めていた中でも不思議と眠気は襲い、私は4時間ほど寝たり起きたりを繰り返しました。みんなの神経も高ぶっていたので何度か悲鳴とざわめきで起こされました。一度目はラットの出現で女性が騒ぎ、二度目はバスの到着の噂が流れてきた時でした。

12月27日-朝6時ごろでした。

バスの噂が本当か定かでないのでビビカと私はバルコニーから様子を伺っていました。どこに行くのか分からないバス。この避難所にいる全員(100人以上)を連れて行けるか分からないバス。期待するには情報が少なすぎました。

最終的に我々は丘の下にあるバスの方に向かい列に並びました。一つ気になったのは「ドイツ領事館によりドイツ人のためだけに用意されたバス」と聞いていたことです。正直に言えば、私はあまり急いでバスに乗ろうとは考えていませんでした。ただ、ケガ人と行方不明の家族を探している人達を優先してくれればいいのに、と思っていました。

残念ながらバスはどちらのタイプの人達も連れて行きませんでした-このバスはドイツの旅行会社「トーマス・クック」という旅行会社の客だけを連れて行くとアナウンスし、すでに乗り始めた乗客は全員下車するように言われました。ドイツ人が集まっていると聞き、夫が行方不明のドイツ人の女性は喜んで乗車しました。でもその彼女も断固と拒否され、道端で泣き崩れてしまいました。その女性はその時まではまだ落ち着いていたのですが、あまりの仕打ちに精神的にも体力的にも限界だったのだと思います。私達は冷たい目で1,2人を乗せたがらんどうのバス三台を見送りました。

朝10時ごろに余震が来る恐れがあったのでみんなすぐに建物から離れ、外のフィールドに座り込みました。陽が差すにつれて我々の気分も晴れ、電話のネットワークが働くかどうかを確かめはじめました。私は友達が滞在していたパトング・ロッジに電話をかけ、友達が全員無事であることを確かめました。26日の間ずっと音信不通だったのでみんなには大変心配させてしまいましたが、一緒に来た3人の友達は全員ものすごく運良く助かりました。そして、プーケット空港、もしくは香港で落ち合う約束をしました。カロン・ビーチにいたもう2人はホテルがまだ外に出るのは安全ではないと判断し、まだ等分プーケットに止まるようでしたが安全は確認できました。

余震のタイム・リミットは1時間で、私達は余震があってもなくても避難所を出ようと決心しました。しかし、さほど長くしないうちにタイの政府が手配したプーケット行きのバスに乗ることが出来ました。

避難所には家族が今だに行方不明でまだ避難所を去りたくない人達が何人かいました。あるデンマーク人のグループは女の子が一人病院にいて、彼女のお母さんがまだ見つからないのだと教えてくれました。そのグループの青年はおぼれてしまったと思われていたのを後で見つかったので、みんな希望を捨てられないでいたそうです。

プーケット空港に着くと私はずっと一緒にいたデンマークの友達と別れ、お互いが無事に帰れるようにと言葉を交わしました。空港の中は想像通りものすごい人と混乱状態でしたが、私は奇跡的に友達を見つけることが出来ました。彼らはTuk-tukで西海岸を走り、プーケット島の残骸を見てきたそうです。いち早くプーケットから香港に行くフライトは翌日しかなかったので、私達は空港で夜を過ごす用意をしました。


プーケット空港


パトング・ビーチにて

その日、私の友達は私よりも津波の危険にさらされていました。マギーのデジタル・カメラにはクリスマスの日に私達が訪れた店、レストラン、インターネット・カフェ、そしてビーチのパラソルなどが全部めちゃくちゃに壊れているか、もしくは土台しか残っていない様子が映っていました。不思議なことにパトング・ビーチの道角にある仏壇は傷一つ無く瓦礫の真ん中に立っていました。しかし周りにはもう何もありませんでした。








傷一つもない不思議な仏壇(真ん中の白い塔)

私の友達はその朝ごく普通に起き、朝食をとっていたそうです。9時ちょっと過ぎに部屋に戻った時「波が来る!波が来る!」と誰かが廊下でわめいているのが聞こえ、その時初めて異変に気づき、山に登ったそうです。彼らは6時間ほど山から津波がパトング・ビーチの岸に打ちつけるのを(テレビに映っているような)見ていたそうです。幸い、彼らのいたロッジは無傷で水道が止まってしまったことだけが唯一のダメージだったそうです。

私の友達はロッジから空港に来るまでの道のりにたくさんのダメージを見たそうです。Tuk-tukの運転手は危機の際だったので高い値段を押し付けるのをためらっていたそうですが、彼のサービスはその時点では高い需要があり、一週間後には枯れてしまうのが分かっていたので私の友達は通常より200%の値段でTuk-tuk に乗りました。

誰かが見守ってくれている

運の女神に守られている人は確かにます-空港のパブで時間をつぶしている間にあるフランス人と話をしていました。彼はその朝ピピ島にスキューバに行く予定だったのですが寝過ごしてしまい、10時までホテルにいたそうです。しかもホテルはビーチより少し離れていたので彼は無事だったそうです。ピピ島は今回の津波で最もたくさんの被害が出た島です。また、空港で会ったイギリス人のカップルはピピ島から運良く逃げ切ることが出来、洋服もほとんど持たないで(女性はトップレスで波を逃げ切ったそうです)、パスポートも何もかも失くしてしまった状態でした。

ピピ島の島の形からして一番リゾートが盛んだったのは真ん中の浅いビーチ・エリアだったそうです。だから被害も大きく、ほとんど土台しか残らなかったそうです。島の周りには船がたくさん集まっていたのでディーゼルが海に流れ、何人ものが黒い水を飲んでしまったそうです。ピピ島はディカプリオの映画の「ザ・ビーチ」の舞台だった島ですが、透き通ったアクア・マリンの海と白い砂浜はまるでパラダイスの様で、さんご礁の辺りをもぐると素晴らしい海洋生物が見られる場所でした-今はもう全て無くなり毒されてしまいました。

私と友達は実はその前日ピピ島に行く予定を立てていました。しかしホテルが全て満員だったので私はシミラン諸島へ、友達はパトングに残って日帰りの旅行をすることに決めていました。今思い返せば何という偶然なのだと思わずにいられません。カロング・ビーチにいた私達の友達のカップル二人はその朝早く起き、ビーチに行こうと計画していたそうです。しかし急に気を変え、ホテルのプールに行くことにしたそうです。その日、彼らはプール・サイドから津波がビーチに上がるのを見たそうです。パトングで私達が宿泊していたロッジは忙しいシーズンだったので運良く旅行間際にブッキングすることの出来たシー・ビューがない宿泊場でした。そして私自身はその日一番安全な場所にいました。タイ人のお母さんが言ったことを思い出します「今日シミラン諸島にいた人達は一番ラッキーだったんだよ。」

私はプーケット空港でこの日記を持ち歩いていたEconomistのマガジンの広告のページに書きました。48時間以上シャワーなし、ろくに眠る事も出来ず、床にごろ寝をしながら。十分物思いにふける時間はありました。ビビカが言ったある言葉がこの状況にふさわしいと思います:「Timing is everything」。正に少しのずれで、タイミングで死を逃れたのでは、と思うふしがたくさんありました。そしてその少しのずれとタイミングで命を失ってしまった人達も。

自然災害・天災は乱暴で無慈悲で予測できません。この災害の中にいた人達は何らかの影響を受けました。我々の人生のプライオリティは動き、様々なコネクションが人と人の間に生まれました。

Aftermath-香港に戻って

28日に香港に戻れば少しは状況が良くなると考えていました。たくさんの電話、SMS、メールをもらい、自分の無事を伝えるたびにホッとする思いでした。しかし私は自分の体と精神の力を侮っていたようです。

その夜食べた物にあたってしまい、緊張の糸が切れたとたんに弱ってしまいました。うなされる中、まだタイの避難所にいる夢を何度か見、実はタイを離れたことにうしろめたさを感じているのではないかと思いました。何かもっと助けられたのではないか、と。

まだ本調子でない中、どれだけ影響を受けたのか改めて考えさせられました。一日ずつ前に進み、寄付をすることと周りの人と話すのがせめて自分に出来ることなのではないかと思います。

災害にあってしまった人達とその悲しみに悩まされる人達のために祈っています。


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